「このままでは島が韓国に乗っ取られる」島民が抱く不安
対馬と韓国の距離は約50キロ・メール、日本本土よりもよっぽど近い。韓国第2の都市・釜山との間には高速艇が就航し、所要時間は1時間10分。コロナ禍以前には年間40万人を越える韓国人観光客が押し寄せていた。島にはハングルの看板もあふれ、また、土地を買いあさる韓国資本の活動も目立つという。
「このままでは島が韓国に乗っ取られる」
このような不安を抱く島民も少なくない。実際、韓国は対馬の乗っ取りを画策しているようである。いや、韓国側からすれば乗っ取りというよりも「奪還」だろうか。
対馬の領土権を主張する根拠とは?
日本人が竹島は韓国によって不法占拠されていると考えるように、韓国人の間でも対馬は歴史的に見て韓国固有の領土であり、日本が不法占拠している。と、そう考える者が多い。
島根県が「竹島の日」を制定した2005年には、これに対抗して対馬海峡に面する韓国・馬山市が6月19日を「対馬の日」に制定し、その領有権を主張している。また、独島博物館の入口には「対馬は我々の領土」と刻まれた碑文も設置されている。
韓国が対馬を自国領とする根拠は、1419年に起きた「応永の外寇」にある。李氏朝鮮は朝鮮沿岸を荒らしていた倭寇を討伐するため、その根拠地である対馬へ軍勢を派遣した。「対馬の日」に制定された6月19日も、軍船が対馬に向けて船出した日にあたる。
この時の朝鮮軍は対馬の領主・宗氏によって撃退され、島を実効支配することはできなかった。朝鮮領とする根拠は薄い。が、この後に対馬と朝鮮は断交。田畑が少なく慢性的な食料不足の対馬では、古来より朝鮮との貿易に頼って不足する食料を輸入していた。それだけに断交されると死活問題だ。
そこで宗氏は、朝鮮王朝に使者を派遣して臣従を誓った。朝鮮王は対馬の朝鮮への帰属を認めて貿易を再開したという。いわゆる朝貢貿易であり、朝鮮への帰属は貿易再開のための方便。この後、宗氏は豊臣秀吉の臣下となり、文禄・慶長の役では先鋒となって朝鮮軍と戦った。幕藩体制下では対馬府中藩として徳川家に臣従、そのまま明治維新を迎えている。
歴史的に考えて、対馬を韓国領とする根拠は薄い。日本固有の領土と考えるのが無理のないところだろう。しかし、韓国人の思考回路ではそうならない。
竹島と同様に韓国は対馬の占領も狙っていた
太平洋戦争終戦から2か月が過ぎた1945年10月に、旧朝鮮総督府の高官だった鄭文基が対馬の朝鮮領併合を主張した。1419年の李氏朝鮮による対馬侵攻が、その根拠になっていたという。さらに、1948年に大韓民国が樹立されると、初代大統領・李承晩は対馬の返還を要求する声明を発表した。
これに対して、アメリカ政府は「日本が少なくとも350年間完全で有効な管理を対馬で行ってきたことは疑いの余地がない」として、李承晩大統領の声明を否定。サンフランシスコ講和条約でも韓国は対馬を自国領とするよう執拗に要求したが、これも拒絶されている。
しかし、これで安心はできない。サンフランシスコ講和条約では、対馬と同様に韓国の主張を退けて日本領となった竹島も、1953年に韓国がこれを不法占拠してその実効支配が現在も続いている。対馬もそうなる可能性はあった。朝鮮戦争開戦直前には、韓国軍が対馬占領の作戦計画を練っていたと言われる。
さすがに現在では軍隊を使った対馬占領の可能性は低いだろう。しかし、大量の観光客を送り込み土地を買い占められて、やがては韓国によって島が経済的に支配される可能性は多分にある。そうなれば、対馬の返還要求が再燃するかもしれない。近年では韓国のSNSなどでも「対馬奪還」を叫ぶ声が高まっているというだけに、安心していい状況ではなさそうだ…。
参考サイト
独島記念館(日本語)
トップページメニューの表示から「対馬島の表石」が確認できる。
対馬観光映像集 (MOTTO! TSUSHIMA DIGEST)
青山 誠(あおやま まこと)
日本や近隣アジアの近代・現代史が得意分野。著書に『浪花千栄子』(角川文庫)、『太平洋戦争の収支決算報告』(彩図社)、『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社新書)などがある。
『日韓併合の収支決算報告~〝投資と回収〟から見た「植民地・朝鮮」~』(彩図社)2021年8月30日発売予定。