帰還した在日朝鮮人一家を描くトゥルーノース
帰還した在日朝鮮人一家を描くトゥルーノース
北朝鮮の強制収容所を描いたアニメ映画「トゥルーノース」が、6月から日本で公開上映された。収容所に収監され地獄のような日々を過ごす主人公の一家は、帰還事業で北朝鮮に渡った在日朝鮮人。日本で生まれ育った彼らは、日本人と同じ感覚を持ち合わせている。そこに親近感が湧き、見る側もつい感情移入して辛い境遇に同情してしまう。
さて、この在日朝鮮人帰還事業だが、当時の日本人でもその実情には疎い。若い年代ともなれば「何それ?」と思う人は多いだろう。
在日朝鮮人の間で起こった北朝鮮移住ブーム
北朝鮮と日本赤十字社の間で「在日朝鮮人の帰国に関する協定」が締結されたのは1958年のこと。この翌年から幾度かの中断を挟みながら、在日朝鮮人を“故国”である北朝鮮へ移住させる事業が、1984年まで続けられた。
最盛期の60年代には8万人以上、最終的には9万3340人が北朝鮮に送られた。そこには在日朝鮮人だけではなく、配偶者や子弟など約6800人の日本国籍を持つ者も含まれている。
現在の北朝鮮のイメージと言えば、飢餓にさいなまれる世界最貧国。厳しく監視され、自由が著しく制限されている国である。しかし、帰還事業が盛んだった60~70年代頃は、一部の日本人や在日朝鮮人の間でこの世のユートピアのように語られていた。
現在とは真逆の南北のイメージ
日本統治時代には、鉱物資源が豊富だった朝鮮半島北部に多くの製鉄所や化学工場が建設され、工場を可動させる電力を得るために大規模な電源開発も行われた。その“遺産”を継承した北朝鮮は、朝鮮戦争後に飛躍的な経済発展を遂げている。60年代前半には、GDPでも韓国をはるかに上回っていた。
また、当時の韓国は貧しいだけではなく、軍事政権が支配する独裁国家だった。民主化を叫ぶ者たちが弾圧され、政治犯として刑務所に収監されたニュースが日本でもよく伝えられる。一方、北朝鮮は人々が平等に暮らし、教育や医療、住居など必要なものはすべて国から支給される「この世の楽園」と喧伝され、日本ではそれを信じる者も多かった。南北のイメージは、現在とまったく逆転していた。
この世の楽園のキャッチフレーズに騙されて…
この世の楽園のキャッチフレーズに騙されて…
在日朝鮮人は日本での暮らしで多くの差別にあう。就職には様々な壁が立ちはだかり、そのため貧困に苦しむ家庭も多い。そんな者たちにとってこの世の楽園という言葉は、じつに魅力的で心動かされる。60年代末の在日朝鮮人の若者たちを描いた映画「パッチギ」(2005年公開)でも、登場人物たちの間では帰還事業がよく話題となり、彼らは母国への憧れを語っていた。当時の雰囲気がよくわかる。
しかし、それは幻想だった。「何も持たないで地上の楽園に帰ってきなさい」という言葉を真にうけて船出した人々は、北朝鮮の土を踏んですぐに後悔する。生活は貧しく、日本の親族からの送金がなければ暮らしてゆけない。また、帰還者は同胞からも差別され、当局から資本主義の害毒に染まった者として厳しく監視された。
1980年に産経新聞がマスメディアでは初めて、北朝鮮による日本人拉致事件を臭わす報道を行った。この頃なってからやっと、日本でも北朝鮮に疑いの視線が向けられるようになるのだが…、もう少し早く気がついていれば、9万人を越える人々が悲劇にさいなまれることもなかっただろう。
青山 誠(あおやま まこと)
日本や近隣アジアの近代・現代史が得意分野。著書に『浪花千栄子』(角川文庫)、『太平洋戦争の収支決算報告』(彩図社)、『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社新書)などがある。