仁川上陸作戦が成功した秘密はなにか
仁川上陸作戦が成功した秘密はなにか
朝鮮戦争は、6月25日に北朝鮮が韓国に攻め入ってから3か月が過ぎ、米国と韓国を中心とした国連軍は、釜山まで追い詰められた。北朝鮮側の圧倒的な戦力と、兵士の士気の高さが快進撃の理由だった。
国連軍の総司令官であった、マッカーサーは、開戦当初から温めていたプランを実行に移す。それは、マッカーサー元帥は半島西岸にある仁川への上陸作戦計画だった。
米政権内には慎重意見も多くあった。仁川の干潮時と満潮時の差が10メートルと激しく、干潮時の港への入り口も狭かったためだ。
しかしマッカーサーは、
「それだけ意表をつく作戦であるため、奇襲効果が大きい」と言って実行に踏み切った。
上陸には、日本で作られた、軽いアルミのはしごが使われたのは有名なエピソードだ。
国連軍は、1950年9月15日に仁川に上陸し、同時に洛東江ラインから総反撃を開始した。長く伸びきっていた補給線を断ち切られた北朝鮮軍は、予想外の攻撃を受けて大混乱に陥る。
米韓軍は38度線を越えて北朝鮮側に進攻する必要はあったのか
ところが仁川上陸作戦の成功で勢い付いた国連軍は9月28日にはソウルを奪回し、韓国軍と国連軍は9月末に北緯38度線まで進出した。
その年の10月1日、東部戦線の韓国第1軍団が38度線を突破してしまう。米軍も38度線を越え、今度は北朝鮮の首都平壌に向かって、北進を開始した。
本来、国連軍の役割は、北朝鮮軍を韓国側から撤退させることだった。しかしマッカーサーは、この機会に北朝鮮を壊滅に追いやり、南北の統一を考えていた。これが戦況の泥沼化を招いてしまう。
米韓軍を中心とした国連軍が38度線を突破したころ、中国軍はすでに30万人近い大兵力を北朝鮮との国境近くに潜入させていた。
10月25日、中国は満を持して「義勇軍」という名前の軍隊を中朝国境の鴨緑江を渡らせ、戦線に送りこんだ。北進を続けていた韓国軍と国連軍は大混乱に陥った。この年の12月、北朝鮮と中国軍は、平壌の奪回に成功する。
その後、休戦までの約2年半のあいだに、人海戦術を取る中国軍の大攻勢は6度におよんだ。とくに1951年1月初めに再開された中国軍の正月攻勢により、国連軍は再びソウルから、約70キロメートル南に下がった平澤ラインへと後退させられた。
結局休戦となった理由は何か
このあと、双方は塹壕を掘り、長期戦に備えた。このため戦況は膠着(こうちゃく)状態となり、一進一退となった。
この戦争で北朝鮮の指導者の金日成を動かしていたのは、ソ連の独裁者スターリンだった。実際に戦闘を行っている、北朝鮮と中国は休戦を願っていたが、スターリンに休戦を言い出せなかった。
休戦の可能性が高まったのは、1953年3月5日にスターリンが急死したことからだった。また、米国の大統領に、朝鮮戦争の休戦を公約に掲げたアイゼンハワー(共和党)が当選、53年1月に大統領に就任したことも大きい。
戦争の当時国は、もう先の見えない戦闘を止めたがっていたのだ。
(続く)
五味 洋治(ごみ ようじ)
1958年長野県生まれ。83年東京新聞(中日新聞東京本社)入社、政治部などを経て97年、韓国延世大学語学留学。99~2002年ソウル支局、03~06年中国総局勤務。08~09年、フルブライト交換留学生として米ジョージタウン大に客員研究員として在籍。現在、論説委員。著書に『朝鮮戦争は、なぜ終わらないか』(創元社、2017年)『金正恩 狂気と孤独の独裁者のすべて』(文藝春秋、2018年)など。
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