トランプ大統領は、2019年の年明けに米朝首脳会談を行う意向を示している。もし開かれれば、また注目を浴びそうなのが朝鮮戦争(1950~53年)に終わりを告げる「終戦宣言」の扱いだ。関係国が水面下で駆け引きをしており、そう簡単に出せそうにはないが、いつかは終わることになるだろう。日本の戦後にも大きな影響を与えたこの戦争について、分かりやすく3回にまとめてみる。
1回目
なぜ38度線で南北は分断されたのか
この問題に関する最新の著作と思えるのは、朝鮮半島研究の第一人者である小此木政夫慶応大学名誉教授の、『朝鮮分断の起源:独立と統一の相克』 (慶応大学叢書)だ。600ページ近い大著で、その2章に、分断にいたった背景が詳しく書かれている。興味のある人は目を通してほしい。
さて、38度線で南北が分断されたのは、第2次大戦が日本の敗戦で終わる直前のことだ。なんと米国の2人の若者が引いた線だった。
その中の1人は、後に国務長官となるディーン・ラスクである。
彼は、日本が無条件降伏した1945年8月15日(米現地時間では14日)、米国とソ連が合意できる朝鮮半島の境界線の設定、という任務を与えられた。米軍は、首都ソウルを含め、できる限り北に設定したいと考えていたが、兵力の限界もある。その接点を探ったのだった。
ラスクは、1991年に出版した自伝『As Ī Saw It』の中で、「(雑誌)『ナショナル・ジオグラフィック』の地図を引っ張り出し、ソウルのすぐ北にぴったりの境界線はないかと探してみた。目に入ったのが、緯度38度の直線だった」と回想している。
北朝鮮が韓国に攻め込んだ動機は何か
その前に、朝鮮が南北に分かれた理由を説明しよう。
日本の敗戦によって、朝鮮半島は独立国となるはずだった。ところが日本軍が撤退するのと入れ替わりに、南部にはアメリカ軍が、北部にはソ連軍が進駐してきた。
これは1943年11月に行なわれたカイロ会談で決まっていたことだった。米英中(当時は中華民国)の3首脳が、この会談後に「カイロ宣言」を発表した。その中で朝鮮について、
「3か国は、朝鮮人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自主独立のものとする」としていた。
カイロ会談では米大統領のルーズベルトが朝鮮の扱いについて、早期の独立よりも「国連信託方式」を提案した。ソ連のスターリンもその案に同意し、「朝鮮はやがて独立させる」という表現になったのだ。
これによって、アメリカとソ連がそれぞれ朝鮮半島の北と南を統治することになった。ところが南北を統一させるはずが、米ソの対立の余波で韓国、北朝鮮が相次いで建国され、分断が固定化してしまった。
韓国、北朝鮮とも相手の国を認めておらず、武力統一の必要性を感じていたが、指導者の金日成は、一応、抗日運動のリーダーだったため、北朝鮮こそ朝鮮半島の正当な国家との意識が強かった。
なぜ米韓軍は、釜山まで簡単に追い詰められたのか
まずは、北朝鮮側が1950年6月25日の早朝に、韓国側を奇襲したことがある。これで韓国側が大混乱に陥った。さらにソ連の支援を受けて最新鋭の戦車を装備し、ソ連から十分な軍事訓練を受けていたからだ。
一方、韓国の方は、当時の李承晩大統領が北朝鮮への攻撃を唱えて米国と摩擦を起こしており、米軍は一部を残してほとんどが韓国から出ていた。米側は韓国の行動を危険視し、戦車、重砲、軍用機などの提供も拒否していた。
1950年までに、韓国陸軍は総計8個師団、10万人を数えるだけだった。北朝鮮側は約20万人で、ソ連の最新型の戦車を押し立てて進攻してきたため、韓国軍は当初対抗する手段がなかった。
最初の3日間は、北朝鮮軍が破竹の勢いで進軍し、ソウルを陥落させてしまう。その後も北朝鮮軍の士気は高く、開戦3か月後には米韓(国連)軍を釜山周辺まで追い詰めた。
(続く)
五味 洋治(ごみ ようじ)
1958年長野県生まれ。83年東京新聞(中日新聞東京本社)入社、政治部などを経て97年、韓国延世大学語学留学。99~2002年ソウル支局、03~06年中国総局勤務。08~09年、フルブライト交換留学生として米ジョージタウン大に客員研究員として在籍。現在、論説委員。著書に『朝鮮戦争は、なぜ終わらないか』(創元社、2017年)『金正恩 狂気と孤独の独裁者のすべて』(文藝春秋、2018年)など。
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