コロナ禍で北朝鮮人の日常生活に関心高まる中国
先週、中国のSNSに「丹東出身者が語る北朝鮮のリアルな人々と実生活」という記事が載り注目を集めている。
中国は、新型コロナウイルスのまん延で、中朝国境が封鎖されたり、感染対策を名目に都市封鎖(ロックダウン)されたりした。その影響か中国のSNSや動画共有サイトで中朝国境や北朝鮮人の日常生活についての関心が高まったことも背景にありそうだ。
中国人、特に男性の北朝鮮人に対する興味は、中朝の女性の違いにあるようだ。
今回の記事も「最も印象に残るのは、北朝鮮人女性の勤勉さ」という感想で結ばれている。
たばこを渡すとニコニコ兵に
私は遼寧省の丹東で生まれ育った。丹東には特別なものは何もない。あるとすれば、北朝鮮と川を隔てて国境を接していることくらいだ。
鴨緑江の近くに立つと、対岸は家も道路も往来する歩行者、自動車もすべてはっきりと見ることができる。
1990年代に入ると、中朝での国境貿易が発展し始めた。
当時、私は北朝鮮との貿易をする会社へ入社し、以来、北朝鮮の人たちと定期的に連絡を取る生活が始まった。
入社後は、丹東対岸の新義州へよく出張するようになる。そのおかげで、北朝鮮の役人やビジネスマン、さらには、一般の北朝鮮の人たちとも深く知り合うことができた。
鴨緑江を渡ると、新義州側では銃を持った国境警備兵が警備にあたっている。
兵たちは、カーキ色の軍服を着て、主に書類の写真と入国する本人が一致しているかチェックする。
しかし、毎回スムーズに行くわけではない。
そのため、新義州へ行く時には、たばこを数箱持参した。チェックする兵士へたばこを「お土産」として渡せば、問題なくチェックが終わるからだ。
私たちが兵士にたばこを渡すと、彼らはニコニコしながら手続き業務をする。が、もし、たばこを渡さなければ、入国はできるかもしれないが、兵士たちから刺すような冷たい視線を送られて、きっと生きた心地がしないだろう。
1950年代から変化しない新義州
新義州での仕事を済ませると、自由に街を探索することができた。
地元のレストランへ入ったり、商店を見て回ったり、新義州に住む華僑の家で食事をすることもできた。
新義州は、1950年代に建てられた住宅や建物が多い。朝鮮戦争でほとんどの建物が破壊されたからだ。
朝鮮戦争休戦後、中国人民志願軍が新義州再建に協力した。現在の建物は、その時代のものが多い。
実は、それ以来、新義州はほとんど変化していない。
北朝鮮の限られた資源は、首都平壌の建設に集中させたからだ。だから新義州は、何十年経ってもあまり変わっていないのだと思う。
その一方、私の故郷である丹東は、高層ビルがどんどん建ち、大量の自動車が走るようになった。
朝鮮行くときはタバコが必需品。
日本の空港でもさすがに没収されないし。