高宗を巡り「日本の毒殺説」主張
高宗を巡り「日本の毒殺説」主張
北朝鮮が、朝鮮王朝第26代国王であり、初代大韓帝国皇帝となった高宗(コジョン、李太王)の死を巡り、対日非難を重ねている。
高宗は、1919年2月21日(旧暦1月21日)に67歳で「病死」し、その死は、「3.1独立運動」(大日本帝国からの独立を目指した反帝国主義運動)の契機の1つとなった。
その死因については、当時から自殺説から憤死説など様々なうわさが飛び交っていたが、その中に日本による毒殺説があった。
健康であったとされる高宗が、突然死去したという知らせに接した民衆が、病死に疑惑を感じたことは当然でもあった。
毒殺説については、北朝鮮だけでなく、韓国の研究者などからも根強く主張されている。
日本側の資料を毒殺説の根拠に
1月21日、国営メディア・朝鮮中央通信は、「日帝野蛮たちの身震いする国権蹂躙(じゅうりん)行為」とする論評を掲載。日本が高宗を毒殺したと改めて主張した。
同メディアは、毒殺説の根拠として、日本側の資料をあげている。
1919年当時、日本宮内庁の会計審査局長官だった倉富勇三郎の日記に「初代朝鮮総督である寺内正毅(第18代総理大臣)が、乙巳5条約(第2次日韓協約)を認めない高宗皇帝を毒殺することを指示したという話を聞いた」との記述があることが根拠だとしている。
その上で、「一国の国家主権の最高代表者である皇帝を強制退位させ、毒殺した犯罪は、日本の過去史でしか探し見ることができない」と述べ、日本の国家犯罪と非難した。
「高宗死亡日、1月21日確定」と報道
朝鮮中央通信は26日にも、「歴史学学会と民俗学学会が高宗の死亡日を1919年1月21日と確定させた」とする記事を掲載、日本側の「捏造資料」を非難した。
どういうことかと言うと、同メディアは、「日帝は、1919年1月23日付の朝鮮総督府官報で高宗が同21日、脳出血で重体に陥り、同22日に死亡したと公式に発表した」が、これを捏造であったと指摘。
「日帝が高宗の死亡日をわい曲、ねつ造したのは、朝鮮に対する植民地支配の障害となる高宗をひそかに毒殺した自分らの犯罪を脳出血による死亡として覆い隠し、朝鮮人民の反日感情を静めようとした」と説明している。
このように、北朝鮮は高宗の死を巡り、長年、日本に過去清算を求めているが、韓国社会でも毒殺説は、根強く主張されている。
一方、日本政府は、基本的にはこれらの非難に取り合わない姿勢である。
1次資料の不足から期待される共同研究
ちなみに、今回北朝鮮が主張したように、上記の「倉富勇三郎日記」を根拠にする考え方は、2009年にソウル大学の李泰鎭(イ・テジン)氏が発表したものである。
ただ、倉富勇三郎日記における記述は、「毒殺の噂(うわさ)があり、確かめようとしたが叶(かな)わなかった」という内容であり、これだけを根拠にすべきか疑問視する声もある。
とはいえ、日本統治時代という状況から、毒殺説あるいは、高宗の死因を学問的に検証するための1次資料がないことがそもそもの原因ではある。
毒殺説の根拠としてきた資料は他にもあるが、その大部分は、3.1独立運動当時、独立運動側が作成した新聞などであり、検証が難しいものばかりだ。
そのため、研究者の中には、日本政府に関連資料の提供を求める声も上がっており、高宗の死に限らず、韓国併合時の歴史について共同研究が期待されている。
八島 有佑
@yashiima