大統領選の焦点になる韓国の頭髪事情
3月の韓国大統領選は、与野党の候補の家族などに不祥事が相次ぎ、選挙情勢は混沌(こんとん)としている。世論調査も二転三転、どちらが勝つか読めない。
そんな中、与党候補が打ち出したある政策に国内外から注目が集まっている。
薄毛治療薬に健康保険を適用する。つまり、薄毛に悩む人たちに政府が救いの手を差し伸べるというのだ。
これに20~30代を中心に熱い反応が起きている。なぜなのか。韓国の頭髪事情を探ってみた。
薄毛治療薬への健康保険適用、15日に正式公約へ格上げ
始まりは、与党「共に民主党」候補の李在明(イ・ジェミョン)氏の発言だった。
1月4日、薄毛治療薬に健康保険を適用する公約を検討中だと明らかにした。
昨年、李候補陣営が若者らにインタビューした結果、青少年を対象とした金融教育などと並んで、薄毛治療薬への健康保険適用が出てきたという。
これに李候補が反応し、「生活密着型公約候補」として発表。15日には、正式な公約に格上げした。
これに対し、他の候補も薄毛治療薬の価格を下げると表明するなど「薄毛問題」が大統領選挙の大きな争点となっている。
国民5人に1人、1000万人が薄毛に悩む
韓国は、実は「脱毛王国」だ。
髪の毛に悩むのは、年配者になってからと思いがちだが、進学競争が激しく、大企業への就職や出世競争でもしのぎを削る若者もストレスのため、頭髪に異変を起こす人が少なくない。
関連の市民団体によると、韓国で病的な脱毛症を含む薄毛に悩む人は約1000万人。なんと国民の5人に1人の計算だ。
悩みの程度は様々だろうが、実際に治療を受けている人も少なくない。
国民健康保険公団(保険の運用団体)によると、昨年、脱毛症で診療を受けた人は23万3000人だった。これは2016年の21万2000人に比べ9.9%増加していた。
特に30代以下の脱毛症患者は、全体の51.4%にも達する。全体で見ると男性が13万3000人(57.2%)を占めたが、50代以上で見ると女性の方が多くなる。
「young脱毛」などという新語も生まれており、脱毛防止や毛髪育成効果を謳ったシャンプーは、大ヒット商品になっている。
日本でも有名な男性俳優ヒョンビンをはじめ、20代、30代のトップスターがCMに起用されている。
ネット上では李在明候補への歓喜の声
実は現在でも、脱毛症治療の一部は保険が適用されている。
ストレス性や皮膚病が原因の場合、つまり、病気と判断されるケースだ。老化や遺伝性の場合は除外されている。
脱毛症治療薬で最も有名なのは、「プロペシア」という飲む薬だ。
韓国紙、ソウル新聞によれば、韓国での価格は、3か月分14万~16万ウォン(1万4000~1万6000円)程度。
毛髪移植は、2000本あたりで300万~500万ウォン(30万~50万円)にもなることがある。
もし、公約が実現し、幅広くカバーされれば、治療による負担の3分の2が公費から支払われるという。
それだけに薄毛問題で意見交換するインターネットのコミュニティでは、李氏が薄毛関連の公約を発表すると、歓呼の声であふれた。
「一千万脱毛人の希望だ」「私の頭のために李在明」「李在明を植えよう(選ぶの意味)」というスローガンで盛り上がっている。
世界で薄毛治療に保険適応している国はない
国民健康保険は、日本と同じように適用範囲が徐々に広げられている。
朴槿恵(パク・クネ)政権時代には、歯のスケーリング(歯石除去)とインプラント手術が対象になった。ただ、これらの影響で健康保険の財源は厳しく、2025年は底をつくという指摘もある。
一応命の危険がないと思われる「薄毛治療」まで組み込むべきか、議論は分かれている。そもそも、世界で薄毛治療に保険適用している国は皆無だという。
実現性に疑問符が付くこの公約を、日本を含め世界のメディアが、面白おかしく取り上げていることから、野党も黙ってはいられない。
「まず難治性の病気に保険適用すべきだ」「整形や美容は自費というのは公平性に欠ける」「将来、保険料の引き上げが避けられない」「人気取りのモ(毛の意味)ピュリズムだ」などと批判の水位を上げている。
与党側もこういった批判を気にしており、適用対象を正式に処方された薄毛治療薬などに絞ることも検討しているという。
そんな政治の動きを横目に、株式市場はさっそく反応している。
薄毛治療薬を扱う製薬会社や脱毛防止シャンプーメーカーの株が、最大2~3割も高くなった。
肝心の李候補の支持率は、伸び悩んでいるものの、薄毛関連がぐんぐん伸びる成長産業なのは間違いなさそうだ。
五味 洋治(ごみ ようじ)
1958年長野県生まれ。83年東京新聞(中日新聞東京本社)入社、政治部などを経て97年、韓国延世大学語学留学。99~2002年ソウル支局、03~06年中国総局勤務。08~09年、フルブライト交換留学生として米ジョージタウン大に客員研究員として在籍。現在、論説委員。著書に『朝鮮戦争は、なぜ終わらないか』(創元社、2017年)、『金正恩 狂気と孤独の独裁者のすべて』(文藝春秋、2018年)、『新型コロナ感染爆発と隠された中国の罪』(宝島社、2020年・高橋洋一らと共著)など、近著『金正恩が表舞台から消える日: 北朝鮮 水面下の権力闘争』(平凡社、2021年)。
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