安重根に並ぶ抗日の英雄
安重根に並ぶ抗日の英雄
「臣にはまだ5000万の国民の応援と支持が残っています」
と書いた横断幕が、韓国選手団によってオリンピック選手村に掲げられた。開会式直前頃に物議を醸したこともあり、知っている人も多いはず。
横断幕の文面は、李舜臣の名言に由来するという。彼は文禄・慶長の役で、朝鮮水軍を指揮して豊臣秀吉の軍勢と戦った将軍だった。
日本とは因縁の深い人物だけに、横断幕には「反日」の意味合いがあると見て、抗議する日本人は多かった。また、国際オリンピック委員会(IOC)からも「政治的宣伝を禁じた五輪憲章に違反する」と指摘を受けている。
このため横断幕はオリンピック開催前の7月17日に撤去されたのだが、この決定には韓国内でかなりの反発があったという。
李舜臣と言えば伊藤博文を暗殺した安重根と並んで、韓国では抗日の英雄とたたえられる人物だ。日本相手の国際試合では、選手たちの士気を鼓舞するために不可欠の存在。その使用を禁じられるなんて思ってもいなかったようだ。
救国の英雄、その戦果は意外とショボかった
李舜臣は卓越した戦術を駆使して日本水軍を殲滅(せんめつ)し、日本軍の補給路を寸断して侵略から国を救った英雄…と、韓国ではこのように認識されている。
釜山やソウルの市街地では彼の銅像をよく見かけるし、紙幣の肖像にも採用されている。また、李舜臣が大勝利を収めたとされている鳴梁海戦を描いた映画「鳴梁」が2016年に公開され、韓国内で1760万人の観客を動員。中国や北米などでも上映されて大ヒットした。
しかし、史実はどうだったか。鳴梁海戦について書かれた日本側の資料には、30隻の日本船団を12~14隻の朝鮮水軍が襲撃したとある。また、日本水軍が反撃してくると、李舜臣は即座に逃走したという。実際には“小競り合い”といった程度の戦いだった。映画にあるような大海戦は起こっておらず、韓国で言われる「日本船330隻を沈めた」というのもファンタジーである。
勝敗に与えた影響はほとんどなかった
入江に潜伏して日本軍の戦闘艦艇をやり過ごし、隙を突いて補給船を襲うゲリラ戦が李舜臣の基本戦術。休戦協定が締結された後にも、日本船を襲撃する協約違反を犯すなど、やり方には褒められない部分も多々あり、それでも圧倒的な戦力差を誇る日本水軍から制海権を奪い返すことはできなかった。
日本軍の補給が滞ったのは事実だが、それは陸路の問題である。日本水軍が制海権を掌握する海路では計画通りに輸送が行われ、集積地である釜山には大量の物資が届いていた。つまり、李舜臣の存在が戦いに影響を及ぼすことはほとんどなかった。ということである。
英雄になったのは韓国建国後
李舜臣が韓国内で英雄として語られるようになったのは、戦後になってからのこと。日本植民地時代や、それ以前の大韓帝国時代にはその名を知る者はまずいなかった。大韓民国独立後、日本への対抗心から捏造された存在。そういったところだろうか。
また、韓国選手団の掲げた横断幕にある彼の言葉についてだが、これは朝鮮水軍が大敗を喫した1597年の漆川梁海戦の直後に、朝鮮国王に送った彼の書簡に由来するものだという。
この戦いで朝鮮水軍は大半の艦艇を失い、わずか12隻の軍船を残すだけの壊滅状態だった。当時、李舜臣は降格されて指揮権を剥奪されていたのだが、朝鮮国王によって再び指揮官に指名され、残存戦力をまとめて戦うよう命じられる。これに対する彼の返信が、
「今臣戦船 尚有十二 舜臣不死」
と、いうもの。つまり「今、臣にはまだ12隻の軍船が残っております。舜臣は死んでおりません」という、必勝の誓いだった。
真実を知れば選手たちの戦意も萎える?
韓国選手団は、この言葉をもじった文面を横断幕にして掲げたである。韓国人の間ではよく知られる名言だけに、すぐに李舜臣の言葉が元になっているのはわかる。
史実では、李舜臣が指揮を引き継いだ2か月後には、先に述べた鳴梁海戦が起こった。彼が率いる12隻の朝鮮水軍が日本船団330隻を沈める大勝利を得たとされているのだが…小競り合いの後に、制海権を放棄して逃げたのが史実である。それを知ったら、闘志が萎えてきたりはしないか。
青山 誠(あおやま まこと)
日本や近隣アジアの近代・現代史が得意分野。著書に『浪花千栄子』(角川文庫)、『太平洋戦争の収支決算報告』(彩図社)、『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社新書)などがある。