国籍巡って韓国が中国を批判
国籍巡って韓国が中国を批判
日本でも広く知られている詩人の尹東柱(1917年-1945年)は、満州国時代に間島省があった現在の吉林省延辺朝鮮族自治州・龍井で生まれた。そのため、中国のインターネット百科事典「百度」では、尹東柱の国籍を中国としている。また、龍井にある尹東柱の生家入口には、「中国朝鮮族愛国詩人」と刻まれた標石が建てられている。
これに対して、尹東柱を「民族詩人」として敬愛してやまない多くの韓国人が反発、「中国が歴史を歪曲している」と批判している。
中華人民共和国が建国(1949年10月)する数年も前に亡くなった尹東柱を、中国の少数民族「朝鮮族」と強調するには違和感があるが、延辺で生まれ育ったのは間違いない。また、大韓民国の樹立(1948年8月)前の人物であり、狭義の「韓国人」とも言えない。
国籍を巡る韓国からの批判に対して、中国の新聞「環球時報」は、「両国の専門家の考証と分析が必要」と指摘。韓国側の動きを、「国内の民族感情を扇動している」と批判している。
最近のニュースだけ見ると、中国は、昔から尹東柱を、延辺が生んだ偉人としてたたえてきたかのように錯覚してしまうが、中国と韓国の交流が本格化する1980年代後半になるまで、中国では「忘れられた詩人」だった。延辺の朝鮮族は、尹東柱をまったく知らなかった。尹東柱が民族詩人として韓国で尊敬を受けている事情が伝わるなか、1990年代にお墓や生家、尹東柱の代表作「序詩」を刻んだ大成中学の詩碑など、ゆかりの場所が次々に整備されている。
日本人学者が見つけ出したお墓
尹東柱は、中国では、無名というだけではなく、龍井郊外の丘にあるお墓の場所さえわからなくなっていた。そのお墓を1985年5月に「再発見」したのが大村益夫・早稲田大教授(当時)だ。大村教授は韓国に住んでいた尹東柱の実弟、尹一柱に託された地図をたよりに、延辺大学教授らとともに龍井を訪ね、荒れ果てた墓地からお墓を見つけ出している。「発見者」が日本人だったのは、韓国人よりも、日本人の方が、延辺訪問が容易だったという、当時の国際状況が影響している。
1985年当時の龍井は未開放地域。外国人が訪問するには、公安局から許可証をとる必要があった。朝鮮戦争で戦火を交えたことや、「唇亡歯寒(しんぼうしかん)」と言われた中国と北朝鮮の特別な関係もあり、中韓国交正常化と人的交流は、日中関係よりもずっと遅れた。韓国人研究者が延辺を訪ねるのは、日本人以上に難しかった。そこで、尹一柱は、延辺大学に長期間滞在して研究生活を始めるという大村教授に、長年の懸念となっていた、兄の墓参りを託したのだった。
お墓を見つけた時のことを、大村教授は、「しばらく彷徨(さまよ)った後で、東柱のお墓を見つけ出し、感激にことばもなかった」と回想している(2016年3月15日付「ハンギョレ新聞」)
遺灰となって戻ってきた尹東柱
尹東柱は1945年2月、日本の福岡刑務所で、27歳の若さで亡くなった。龍井には、厳冬の2月末に遺骨となって戻り、気候のよくなった6月、弟の尹一柱らによって「詩人尹東柱之墓」と刻まれた墓碑が建てられた。大村教授らは、この墓碑を目印にお墓を見つけだしている。
尹一柱は、尹東柱の遺骨が戻ってきた当時のことを、「ひとにぎりの灰となって東柱兄さんの遺骨が帰って来たとき、私たちは龍井から二百里離れた豆満江の岸辺の祖国の地である上三峯駅まで出迎えに行った。遺骨はそこで父の胸から私の胸に移り、長い長い豆満江の橋を渡って帰ったのである。二月末の、大変寒く、吹雪いた日、豆満江の橋はとてもとても長いものに感じられた」(金賛汀『関釜連絡船 海峡を渡った朝鮮人』朝日選書)と回顧している。
尹東柱の遺骨を抱いた父が下車した「上三峯駅」は、龍井市開山屯の対岸、現在の咸鏡北道穏成郡三峰区にある。「長い長い豆満江の橋」は、1932年9月に完成。今も中国側の開山屯税関と北朝鮮側の三峰税関を結ぶ国境の橋として使われている。
熱川 逸(フリーライター)