3.1独立運動の導火線となる朝鮮人留学生による民族運動は現代韓国へも影響を与える

3.1独立運動の導火線となる朝鮮人留学生による民族運動は現代韓国へも影響を与える

熱心に話を聞く参加者たち。在日韓人歴史資料館

 東京都港区にある「在日韓人歴史資料館」では、一般参加者が有識者の講演を通して在日コリアンの歴史などを学ぶことができる「土曜セミナー」を定期的に開催しており、108回目となった6月2日の土曜セミナーでは、小野容照准教授(九州大学大学院)が講演を行い参加者は熱心に耳を傾けた。

 セミナーの冒頭では、早稲田大学の教授でもある在日韓人歴史資料館館長の李成市氏が挨拶を行い、「今年で1919年3月1日の朝鮮独立運動から100年を迎える。朝鮮独立運動にとって、日本に朝鮮人留学生が起こした『2.8独立宣言』(朝鮮人留学生が、1919年2月8日東京で集会し、「朝鮮青年独立団」の名で発表した独立宣言文)は非常に大きな意味を持つといわれている」と説明し、2.8独立宣言の歴史的意義を強調した。

 小野容照准教授は、「在日朝鮮人留学生の民族運動」というテーマにそって講演を行った。

 1910年代の在日朝鮮人運動史研究の叙述は、留学生が中心となる。厳密に言えば、日本定住するつもりがなく留学を終わったら朝鮮に戻る予定である留学生は在日朝鮮人には含まれないが、1910年代はその留学生が中心となって民族運動を行っていた。そして、1920年代以降は、定住志向の朝鮮人が増え、在日朝鮮人(労働者)の生活と密接した運動が行われた。

 また、このころ朝鮮半島では日本政府による武断政治が行われており、朝鮮人に言論や出版、運動の自由は認められていなかったため、民族運動の主役は留学生であった。実際、「3.1運動」(1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった日本からの朝鮮独立運動)後の朝鮮半島内の民族運動の担い手の多くが1910年代に日本に留学をした者であるとされるし、朝鮮憲兵隊の資料には「1919年の2.8独立宣言が3.1独立運動の導火線になった」という主旨の記述がある。つまり、在日朝鮮人留学生が朝鮮最大の民族運動である3.1独立運動のきっかけを作ったと言える。

 注目するべき事実として、1910年代の朝鮮人留学生は、民族運動史において重要な存在であるのみならず、現在の韓国にも影響をおよぼしている。

在日朝鮮人留学生の歴史。1910年の日韓併合後に日本へ留学する朝鮮留学生が増加

 1876年に日朝修好条規が結ばれたが、その際に「日本に使者(留学生)を派遣させる」こととなった。初めての朝鮮人留学生は、1881年には朝鮮から日本に派遣された「紳士遊覧団」である。その後、1895年福沢諭吉の提案で約200人の朝鮮人留学生が日本に派遣されることになるが、これには「朝鮮近代化の担い手を育成する」ということの他に、「支配に向けて朝鮮の情報収集をする」という目的があったと推測される。

 歴史は転換期を迎える。1897年に国号を大韓帝国に改め中国からの独立を示した後、1905年に大韓帝国は日本の保護国となり外交権を奪われ、1907年には内政権が剥奪された。その後、1910年に大韓帝国は日本に併合された。朝鮮政府の官立教育機関は、日本の文部省などの指示を受けることになった。その結果、「朝鮮には、高等学校という名前ではあるものの教育内容は中学レベルの学校しか作らない」という政策がとられた。そのためこの時期に高等教育を受けるために日本に留学する朝鮮人が増加した。

 在日朝鮮人留学生の間では愛国啓蒙運動が行われた。この運動は、「学会」という団体を組織して近代文明を積極的に朝鮮に導入、啓蒙し、朝鮮社会の国力や実力を養成した後、国権の回復を図るという救国運動である。日本で習得した文化の移植に朝鮮人留学生は大きな役割を果たした。特に留学生団体「大韓興学会」の機関誌『大韓興学報』(1909年発行)は非常に優れたできであった。

 朝鮮における愛国啓蒙期の教育は、まず体力が必要であるというものであった。体力が身につくと精神力が身につき、ひいては国力向上につながるという考えのもと体育教育に力を注いでいた。この体力を養うため、最新のスポーツを習得するという点でも朝鮮人留学生の役割は大きく、大韓興学会は1908年に「野球隊」を結成し朝鮮を訪問した。その結果、朝鮮では野球が注目され広まることとなった。

 このように朝鮮人留学生の手によって、野球や雑誌などの西洋文化が日本を経由して朝鮮に渡っており現在の韓国にもその影響は残っている。

日韓併合後の民族運動。独立への実力養成として出版やスポーツが盛んに

 1910年8月から朝鮮総督府による武断政治が始まり、朝鮮人の言論や出版、集会、社会活動の自由が大幅に制限された。朝鮮半島内とは異なり、日本では結社や出版が内地の法令に基づいて定められていたため、朝鮮人留学生が民族運動の主軸となった。愛国啓蒙運動は、独立できるだけの力がつくまで養成につとめる「実力養成論」に基づいて行われ愛国啓蒙運動の路線を引き継いだのは「在東京朝鮮留学生学友会」であった。

 1912年に結成した学友会は出版活動と運動に力を入れた。学友会が出していた機関誌『学乃光』(1914年創刊)は秘密裏に朝鮮に流入し、言論の自由のない朝鮮で文化啓蒙の役割を担った。学乃光を発行する上で、ハングルの活字を持つ印刷所が日本に少ないことや官憲の監視、警戒が障壁となったが、韓国併合後の朝鮮人留学生の出版物の大半を印刷していたのが「福音印刷合資会社」である。社長である村岡平吉は、敬虔なクリスチャンであり、宣教師のヘボンと交流が深かった。

 各国語版聖書の印刷を行う「福音印刷合資会社」には、ハングルの活字があった。また村岡平吉は、『赤毛のアン』で有名な村岡花子(翻訳家)の義父で、「福音印刷合資会社」はNHKドラマ「花子とアン」に「村岡印刷」として登場する。村岡平吉の5男である村岡斉は明治学院大学で小説家の李光洙と同級生であった。このようなつながりから、朝鮮人留学生は福音印刷合資会社で出版、印刷経験を蓄積し、多くのハングル雑誌を刊行して、朝鮮に送っていた。

 1909年、大韓興学会の野球隊がソウルYMCAと「YMCA野球団」という合同チームを結成した。主力選手は、邊鳳現(早稲田大学で学乃光編集長)であった。1912年、早稲田大学野球部と初の日朝戦を行った。その後、YMCA野球団は、日本の強豪チームと戦い、朝鮮総督府鉄道局のチームに勝利するなどして朝鮮のナショナリズムを高揚させた。1915年からは朝鮮人留学生チーム「PANTO」の夏休みを利用した朝鮮訪問が始まった。これは、朝鮮におけるスポーツ振興のためで、独立のための基礎体力をつけるのが目的であった。広義の独立運動であるが、日本との直接対決は避ける形で行われた。

1910年代の朝鮮人留学生の独立運動。第一次世界大戦で文字通り世界の歴史が連動し始めた中で

 朝鮮人留学生の独立運動は、1915年7月の秘密結社「新亜同盟党」結成に始まる。これは朝鮮人留学生と中国人留学生の同盟であった。日本にいる留学生は、情報が厳しく統制され、世界情勢の把握が困難であり、外国人との出会いも少ない朝鮮内とは状況が異なる。朝鮮人留学生は、日本にいるメリットを生かし国際交流による独立運動を展開した。

 中国人の間で「中国は第2の朝鮮になる」という植民地化への危機感が強まり、朝鮮人と中国人の利害が一致したことが新亜同盟党結成の一因となっている。中国人留学生のメンバーには、リーダーである黄介民をはじめ、辛亥革命経験者が多く在籍していた。

 新亜同盟党はメンバー集め以外の活動はできないまま1917年に自主解散したが、解散以降もメンバーは交流を続け、このときの独立運動の経験が2.8独立宣言に生かされることになる。

 1918年11月、第一次世界大戦が終結し、戦後処理(パリ講和会議)で民族自決が議題となった。アメリカで李承晩、上海で呂運亨らが講和会議参加を画策したが、李承晩は失敗し、上海から金奎植が唯一の朝鮮人としてパリ講和会議に参加することになった。

 1918年12月から1919年1月にかけ、朝鮮人留学生が大規模独立運動の話し合いを行い、「大韓青年独立団」が結成された。そして、1919年2月8日、在日朝鮮YMCAで崔八鏞が独立宣言書を朗読し、パリ講和会議で朝鮮への民族自決の適用を目指したものの実現には至らなかった。

朝鮮留学生たちによる民族運動が現代の朝鮮半島へ残したものとは?

 3.1独立運動後は、朝鮮半島内において統治政策の転換が行われ言論や集会、結社の自由が認められた。その結果、文化的活動は活性化し、留学生の民族運動の意義は相対的に薄れた。しかし1910年代の留学生はその後も活躍している。1920年4月、張徳秀らは「東亜日報」を設立し、スポーツなど各種文化事業を後援した。また1920年7月、邊鳳現らは現在の「大韓体育会(KOC)」の前身組織を設立した。

 このように、留学生の民族運動の影響は、「3.1独立運動の導火線」にとどまらないのである。

 次回以降の土曜セミナーの開催日程は以下のサイトへ掲載。
在日韓人歴史資料館

立山達也
 

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